アニソン歌手・影山ヒロノブ、ドラゴンボールとの出会いに「涙が出た」当時を回想…意外な歌声の誕生秘話とは

ABEMAが毎週金曜日に放送しているアニメ特番『SHIBUYA ANIME BASE』では、5月23日(金)と6月6日(金)の2回にわたり、アニソンシンガーの影山ヒロノブさんが登場。どのようにして現在の活動にたどり着いたのかについて年表形式で振り返った。
影山さんは、1977年(当時16歳)でLAZYのボーカル・ミッシェルとしてデビュー。当時について「デビュー曲を作詞したのは作家としてデビュー間もない森雪之丞さんなんです。すごいでしょ?2枚目のシングルもレコード会社がすごく力を入れて、作曲は都倉俊一さん、作詞は松任谷由美さん。作詞・作曲でいえばこれ以上ないくらいの話題のコンビで出したんですけどあんまり売れなかったんです(笑)」と振り返る。
力強い歌声の誕生秘話も
1978年には17歳にして、「3枚目の『赤頭巾ちゃん御用心』というすごい可愛い曲がめっちゃ売れました。でも揉めましたね。かまやつさんにスカウトされたときはデビューはかわいらしい曲でもみんなうまいからすぐハードロックな曲ができるようになるよって言ってくれていて、そういうつもりもあったんですけど、1枚目、2枚目がぜんぜん売れなかったことによって、3枚目がよりポップなやつになったんですよ。」「ここまでかわいくなくていいんじゃない?もっとロックなことをやらせて欲しいなって言ってたけどレコード会社とか事務所はどんどんパターンを変えてもっとかわいくてファン層の女子中高生がよろこぶ方向で追求していこうっていう感じで」と、ロックを追求したいメンバーと、売れるかわいい曲を出したい事務所&レコード会社で衝突。
その結果、デビュー4年後にLAZYは解散となり1981年、20歳でソロデビューを果たすことに。
事務所とレコード会社を解雇されたのち、BIRTHDAY SONG(音楽事務所)社長の山岸さんと出会い、1年で100本以上のライブをさせてもらえることになった影山さん。通常ではありえない数のステージをこなし、ハスキーで力強い、唯一無二の声を手に入れることとなった。
さらにこの期間で得たものとして、建設現場でのアルバイトでの経験を挙げ、「自分しかやれない生き方をすることが食っていくための一番の近道。他の誰でもないONE&ONLYな何かがあれば音楽業界でもきっとやっていけると思った」と過去を振り返った。
そして、24歳のときに影山さんにとってのターニングポイントが。
『CHA-LA HEAD-CHA-LA』聴いたときに「涙が出ました」
「コロムビアレコードの木村さんというディレクターから『電撃戦隊チェンジマン』のオープニングとエンディングを歌ってほしいというオファーがあった」と語る。しかし、現実はそう甘くなく、「やることなすこと全部否定された」そう。しかし、厳しい指導の裏で、先輩、後輩たちには「影山くんみたいな声の出し方をして、影山くんみたいな日本語の歌い方をしないとダメ」と言っていたと愛情深い人だったことを語る。
その後、1988年、27歳のときにアニメ『聖闘士星矢』の第2期オープニングを担当するなど快進撃がスタートするなか、アニメ『ドラゴンボールZ』の主題歌『CHA-LA HEAD-CHA-LA』と出会うことに。「『ドラゴンボールZ』の初回放送で『CHA-LA HEAD-CHA-LA』を聞いたときは涙が出ました。アニソンってこんなに映像と合っていていいの?と思いました」と当時を振り返る。
2000年、39歳のときにはスーパーアニソンユニット『JAM Project』を結成し、ワールドツアーを成功させるなど各方面で活躍。そんなアニソンシンガーとして41年もの間精力的に活動する影山さんに今思うことを尋ねると、「アニメによっていろんな音楽を作ることがこんなに楽しいんだって思えた。お題を与えられた中で自分がどれだけのびのびと羽ばたけるか?っていうようなアニソンの夢のある音楽作りができて、この業界に目をつけて飛び込んでよかったなってすごく思います」と感謝を口にした。